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ちょっとわからないことが。

 投稿者:ちょっとわからないことが。  投稿日:2015年 2月 4日(水)11時59分54秒
  ちょっとわからないことがあるのですが、ここに書き込んだら、ホワイトヘッドのことを教えていただけるのでしょうか。『過程と実在』を読んでいたんですけど、今は、範疇の説明あたりまでで、疑問に思ったというか、だれか詳しい人にそれについて議論してほしくて、このサイトを見つけたので、投稿します。生成という概念が気になって、たとえば、宇宙が終わるときも、生成して終わるのだろうか、というか、ホワイトヘッド的には、宇宙が生成しなくなるという場合をちゃんと射程に入れて思弁していたのかな、というのが疑問でした。生成それ自体の寿命というか、そういうものはあるのでしょうか。宇宙が、「生成して終わる」という謎の事態を受け入れてしまっているような気がするのですけれど。  
 

「ホワイトヘッドの哲学」

 投稿者:宮野升宏  投稿日:2014年 6月 2日(月)17時35分44秒
  初めまして。白頭庵様の下の文章を読みました。
もしまだ、J.デューイ「ホワイトヘッドの哲学」の私の翻訳を手に入れておられませんようでしたら、ご連絡ください。送呈申し上げます。(私は、一応、ホワイトヘッド・プロセス学会の会員になっております。)E-mail: miyano-sho@mocha.ocn.ne.jp

以下、読むつもりの皮算用リスト

(1)
1937年に発表されたデューイのホワイトヘッド論。

Dewey, John. "Whitehead's Philosophy" in The Philosophical Review Vol.46, No.2 (Mar., 1937), pp.170-177.

これはデューイの『後期著作集』でも読める(Dewey, John. The Later Works, 1925-1953: vol.11, 1935-1937 (Collected Works of John Dewey), ed. by Jo Ann Boydston. Southern Illinois Univ. Pr., 2008.)

白頭庵作成の「ホワイトヘッド略歴」にも挙げていないが、同時代に、デューイがホワイトヘッドをどう読んでいたのかを知るために必読の論文だ。たった8ページだけどかなり重要だと思う。

これから、読む。読むためにアマゾンで注文した。この夏のあいだに入手できたらいいな。


※ その後、邦訳があることを知った。この夏のあいだに入手したい。しかし、図書館も盆休みに入るから、複写依頼して送ってもらってということになると9月以降になるかな。
J.デューイ、「ホワイトヘッドの哲学」(翻訳と訳注)宮野升宏訳、『哲学年誌 7』大正大学哲学会、27-36ページ、2000年

 
    (白頭庵) 宮野升宏さま

書き込み、ありがとうございます。デューイの翻訳、大学図書館の複写サービスにより入手して、拝読させていただきました。

デューイによるホワイトヘッドの評価を知ることのできる、たいへん貴重な訳業ですね。ありがとうございます。

メールにてお返事させていただきます。
 

このHP仮死状態だな・・・。

 投稿者:スペインからこんにちは  投稿日:2008年11月16日(日)11時15分40秒
   一つ質問なんだが・・・、最近バルセロナで外尾悦郎さんとお話しする機会があってな、その際に福音書家マテオのシーツの話をされたんだ。シーツが彫刻のテーマになってたから。そのときのマテオの話をされたんだがよく思い出せない。

 何でもマテオを追って追っ手がわんさかやってきたとき、シーツをかぶっていたマテオは、追っ手がシーツに手をかけたとき、そのシーツが体からはだけて、追っ手が戸惑った瞬間に逃げることができたのだとか。

 その追っ手とは?またなぜ追われていたんだろう?キリスト教布教を妨害するため?

 基本的な話ですまんのう。

http://www.geocities.jp/satorito_ga_iitaihoudai/index.html

 

(無題)

 投稿者:キンキン@ダイコク堂メール  投稿日:2008年 5月 6日(火)22時20分24秒
  あ、放談も読みました。「枯渇?」と疑問符付きのタイトルでしたが、この文章においてたしかに「枯渇」は疑問符であって、疑問符である限りにおいて、その枯渇はなにかのための準備運動であったと言える時が来る。うん、来そうだ。と思いました。  
    (白頭庵) キンキンさん、コメントありがとうございます。

まずまず、読まれるのを待っている膨大な本が棚にも机上にも床にもある、ということから、ぼちぼち出発したいと思います。僕がせずとも、積んである本の方で準備運動してくれているような思いです。
 

(無題)

 投稿者:キンキン@ダイコク堂メール  投稿日:2008年 5月 6日(火)22時13分39秒
  > 言いにくいことですが、哲学の畑には、打てる球を投げないと機嫌が悪くなる人、打てる球を投げないとこっちが投げたことすら気づかない人、そもそも他人はみんなバッティングセンターのピッチングマシンだと思っている人、弟子筋がトスする球だけ打ってホームランだと喜ぶ人などなど、いかんともしがたい人たちが、たんといます。そちらの畑ではどうですか。

いるいる。うようよといます(笑)
そういえば、日本のプロ野球には「番長」というあだ名の人がいますね(爆)
まあいいでしょう、斬られたことに気づかない人がいるんなら、私も免許皆伝です。

う~ん、自分で言うようでは免許皆伝にはほど遠いな。。。
 

ホワイトヘッド

 投稿者:キンキン@ダイコク堂メール  投稿日:2008年 4月25日(金)15時10分10秒
  索引にあるように、ホワイトヘッドの引用はあの一箇所だけなんです。よく知りもしないくせに引用して恥ずかしい限りです。でも、あの一節が序章の「決め球」・外角低めに投げ込んだ直球であることは、おわかりいただけるのではないかと思います。おかげさまで、いいコースにズバーンと決まりました(と、自分では思っている)。  
    (白頭庵) ズバーンと、決まってます。ミットに強烈な感触が残ってます。

でも、ひょっとしたら、あれで三振に打ち取られたはずの当人たちには、そもそも自分らがストライクを取られてバッターアウトになったという自覚すらないのではないか、と、他人事ながらそこのところが気になります。
言いにくいことですが、哲学の畑には、打てる球を投げないと機嫌が悪くなる人、打てる球を投げないとこっちが投げたことすら気づかない人、そもそも他人はみんなバッティングセンターのピッチングマシンだと思っている人、弟子筋がトスする球だけ打ってホームランだと喜ぶ人などなど、いかんともしがたい人たちが、たんといます。そちらの畑ではどうですか。
 

更新

 投稿者:スペインからこんにちは  投稿日:2008年 4月15日(火)06時26分16秒
  しないんですか・・・。「放談」・・・。  
    (白頭庵) 今、ちょっと、できないです・・・。

この疲労感、なかなかのもんです。

いずれ・・・。
 

(無題)

 投稿者:キンキン@ダイコク堂メール  投稿日:2008年 4月 9日(水)08時49分30秒
  新学期はじまりましたね。私は今日のバシカン大からです。曜日変更、コマ数削減と無理を言われましたが、まあなんとか新学期を迎えます。あちこち通って前期は週13コマ、バカでしょこの数字。  
    (白頭庵) 聞くだに恐ろしい数字ですね。どうか、お体とご研究の時間を大事になさってください。
こちらは、新学期の怒濤のような仕事のなかで、ずぶずぶと鬱の淵に沈んでおります。

ところで、待望の著書、出版おめでとうございます。
さっそくホワイトヘッドの引用があって、感動しました。ホワイトヘッド哲学の側から見ても、実に的確な引用だと思います。拝読してから、お返事します。
 

(無題)

 投稿者:キンキン@ダイコク堂メール  投稿日:2008年 2月11日(月)02時52分17秒
  お久しぶりです。
前出の話題のつづきみたいな記事書きました。読んでやってくださいまし。
http://daikokukinkin.blog59.fc2.com/blog-entry-242.html
 
    (白頭庵) 前回の記事の案内を長らく放置してしまっていて、申し訳ありません。実は、まだ、多田富雄氏の記事を読んでいないので、そのうち読んでから返事を、と思っているうちに月日は経ち、春に向けて気力は低下し、春の採点シーズンを迎えていっぱいいっぱいになってしまいました。

ダイコクブログの最新記事と蘇民祭に関する倫理学者氏の記事を読みました。美、倫理、宗教、社会心理、経済、観光・メディア、などなど、哲学者が大好きな主題がごたまぜになった今回のポスターの件については、僕も興味をもっていました。一連の報道からは、宗教行事や民俗風習を観光資源にしようという発想そのものの貧困さが感じられました。そういう発想には、蘇民祭に臨んで何日も精進潔斎し、きっちりと儀礼と風習に沿って祭を行なっている人たちの切実さ、真剣さに対する共感がまったく欠けているように思えました。ポスターを作った側も、掲示を拒絶した側も、祭を通じて達せられていく美的で倫理的で宗教的な切実な世界から遠く離れてしまっていて、経済的な切実さだけから出た発想だけで判断してしまっているように思えます。

現代社会にだって、近代的で経済的な発想だけでは済まされないことがたくさんあるのだし、そういうたくさんある生活、多層的で多元的な世界を相互に評価するような視点が必要です。そして、そういう視点を模索し、表現していくことこそ、哲学や文学の仕事だと思います。
 

多田富雄

 投稿者:キンキン@ダイコク堂メール  投稿日:2007年12月19日(水)18時23分5秒
  追記というかおまけ。

いま、つらつらこの掲示板の過去ログ読んでまして、多田富雄さんの論文について紹介していたことを思い出しました。その論文を含む、リハビリ問題に関する多田さんの著作が2冊出ているのでご紹介いたします。

○「寡黙なる巨人」(文藝春秋)
○「わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか」(青土社)

手負いの虎、というと失礼な言い方になりますが、自然科学と人文科学という領域を易々と横断する「免疫の意味論」の著者が渾身の力を振り絞って書いた2冊。いまこの掲示板での議論に何か示唆を与える部分もあるかもしれません。
 

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