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(無題)

 投稿者:putarou  投稿日:2011年 9月 4日(日)06時35分40秒
返信・引用
   意識・前意識・無意識
 さて、第一部は、精神分析学の柱でもある、無意識と心の働きについてです。フロイドは「人間の心は、こんなふうだよ」と、上の図のような説明をしています。心を海に浮かぶ物体、氷山と考えてください。水色の線が海面ですが、私たちがふだん感じたり、思ったりする部分は、意識と書いてある水の上のちょっとした部分だけです。もっと大きな部分で、意識を働かせているイメージがあったのに。もちろん水面下の前意識、無意識の部分でも、いろいろな精神活動は行われていますが、私たちは、その活動を直接感じることはできません。




 そして私たちは、何かを考えたり、行動したりするとき、「すべて自分が承知してやっている」と思っていますが、実はその大部分が無意識的、だというのです。つまり意思とは関係なく身体が勝手に行動しているというわけです。でも考えてみると、たとえば食事のときなんかでも、私たちは考えているようで、実は無造作に箸を動かしています。そして「お肉ばかりじゃなく、野菜も食べないと身体に悪いよ」と注意されて「あ、そうか。そういゃぁ、たしかに肉ばかり食べてました」なんて話は、誰にでも経験があると思います。そうしたときは意識が働いておらず、無意識的に「そうしている」わけです。ぼんやり行動しているときなどは、ほとんど(無意識的)と思って間違いないと思います。
もちろん、無意識的だけではなく、「こうしたいから、こうする」、「こうすべきだから、こうする」と、意識(意思)で動くことも、私たちの日常では多くあります。ぼんやり歩いていたら、自動車にハネラレてしまいますからね。しかし、そうした場合での自分の意思、こうしたいから、こうするという行動も、もともとは無意識から出ているパワーなのです。つまり、詳しくは後で書きますが、無意識には私たちを動かすパワーが詰まっておりまして、意識は、その無意識から発せられたパワーを、検査し承認するか却下するかを決めているだけなのです。ですから、衝動的に何かをした場合、検査が間に合わず、とんでもない結果になってしまうこともあるわけです。無意識的に肉ばかりを食べているとします。意識は、それを『可(OK)』と思えば、黙ってそれを承認して見ています。承認したということは、つまり意識がそれを「自分の意思でやっている」と認めたことになり、「どうして肉ばかり食べるの?」と問われた場合にも「好きだから食べてるの。ちゃんと分かってるから大丈夫だよ」と相手に、それが自分の意思であること、を伝えることができるわけです。反対に意識が、それを『不可(NG)』と判断すれば、その行為を制止して、正しいと思う行為に改めさせようとします。つまり、自分としてはあまり好きではないけれど、身体に良いとされる食べ方に切り替えるわけです。
つまり、無意識は幼いヤンチャ坊主で、意識はそれを見守る保護者のような関係ですね。
そして、私たちの行動のほとんどは無意識的であり、無意識には、私たちを突き動かすパワー(精神パワー)が詰まっている、ということを、ここでは覚えておいてください。  以上が、意識と無意識の関係です。

そして最後は、前意識(ぜんいしき)です。「意識と無意識は分かったけど、ぢゃあ、前意識とやらは何をしているの」です。前述しました通り、無意識はとてもヤンチャ坊主です。つまり社会性がなく、放置してしまうと「何をやらかしてくれるかわからない」怖さがあります。なので、無意識にあるパワーが、いきなり出て来ないようにフィルターのような役割りを   している場所が、前意識というわけです。


   これもあとで書きますが、無意識にあるパワーは相当に強い力を持っています。   そして、何とか意識に出て「欲求を満たそう」と、日々もがいています。ですが前述した通り、社会性がありませんから、心としては、そのまま出てくることを簡単に許可するわけにはいきません。いわば、意識がシャバ(世間、世の中)なら、無意識は社会性のないパワーを閉じ込めておく牢獄みたいなものです。しかし、「いけないよ~」といわれると、「なおさら、やりたい」と思うのが人情というもので、彼ら、、無意識に閉じ込められたモノたちも「何とか脱獄してやろう」と、いろいろ画策します。そして牢獄の番人(検閲作用)を誤魔化すために、変装し姿カタチを変えて、海面上の意識を目指すのです。しかし、心全体としては、牢獄に居るものに出てこられては都合が悪いので、それを防ごうとします。心の中では、いつもそういうせめぎあいがあるわけです。
 でも、「まあ、すべて防ぐことは不可能だし、出てきたい気持ちも分かるから、こうしましょう・・・」と、その妥協案として「意識までは困るけど、許可したものだけ、ここ(前意識)まで来てもいいよ」と設置された部屋が前意識。 そう考えてください。つまり、無意識にあるモノが捕われ人とするなら、前意識に出てこられるのは、仮出獄を許されたモノです。その前意識にあるモノは、普段は意識されていないけど、ふとした拍子に思い出すものや、「ちょっと待ってね、いま思い出すから」と、いろいろな糸をたぐり寄せれば思い出せるモノたちです。   先ほどの全体図でも前意識は、海面に見え隠れしていますね。つまり、時々、そして、ちょっとだけ意識できるものか、前意識というわけです。

   人間には意識と無意識の世界がある・・・なんとなくでもイメージして頂けましたでしょうか。次章ではもう少し無意識について、に触れてみたいと思います。

心の全体図(2)
無意識の中にあるモノ
 前章では人間の意識と無意識について、簡単に述べさせて頂きました。かなり複雑で、ややこしい世界に感じられたのではないでしょうか。「心なんだから、ガラス張りのオープンでいいじゃない?」と、思われた方もいらっしゃると思います。そうです。自分の心なのですから、自分でも分からない部分がある、というのは嫌です。しかし、たとえ自分に対してでもオープンにできない理由、わざわざ複雑な構造にしてある理由が、心にはあります。そうしたことを含めて、この章では無意識を もう少し考えてみたいと思います。



  まず、こんなふうに考えてみてください。私たちは普段、物事を「あれこれ」と考えていますが、それとは別の部分でも、そうした思考活動が行われていると。そしてそれが無意識の世界です。しかし、前章でも述べましたように、その無意識は、本人である『私』自身にも、まったく認識できません。そして、意識的に行われる思考の多くは『言語』、言葉によって「ああだ」「こうだ」と頭の中を駆け巡りますが、無意識での思考は視覚的なイメージの世界です。  ちょうど、私たちが眠っているときに見る夢がそれです。無意識の中では、さまざまな思いが画像となって詰まっているのです。そしてそれらは、まったく時間や善悪の概念の無い世界です。つまり、いま、あなたが直面している事態とは関係なく、さまざまな思いがうごめいているのです。さて、無意識の世界、なんとなくイメージできましたでしょうか。

 それでは、そのもう一つの思考機能ともいえる無意識の中にあるモノとは、そもそもどんなモノかです。前章では、無意識は牢獄、その中にあるモノは捕われ人、などと物騒な例え方をしましたので、みなさんも「いったいどんなモノが入っているの?」と、興味があるのではないでしょうか。そうですね、、、こういったモノが詰まってます、という特定したいい方はできないのですが、牢獄や捕われ人という表現も、まったく的をはずしたものではないような気がします。ただ、牢獄に繋がれるのは、なにも罪人だけとは限りませんよね。と、少しもったいぶったいい方で引っ張てしまいましたが、まず無意識の中にあるモノの代表格は、動物でいう本能の『欲動』です。もちろん人間も動物なので、本能という呼び名でも良いわけですが、訳あってフロイドは人間の本能を『欲動(よくどう)』と呼びました。(その訳は、また後述します)で、その本能は・・・無意識に閉じ込められているいうより、もともと無意識に居た先住民なのですが人間社会では「閉じ込めておきたい」ものの一つです。なぜなら、動物を思い浮かべて頂くと分かると思いますが、とても衝動的で、身勝手です。まあ、動物の世界ではそれで良いとしても、とても人間社会では通用しないのが本能行動というわけで、「無意識の中で大人しくしておいてください」という感じなのです。
 そしてその他、無意識の中には、自分では思い出すことの不可能な古い体験、あるいは、心に抱いたけど表面に出せなかった怒りや、恨みの感情、そして、思ってはいけないと心が判断した欲望などが詰まっている、といわれています。そう、産まれてから現在までの様々な出来事や、ググッと飲み込んだ怒りや悲しみ、倫理的、社会的に許されない欲望などが詰め込まれているわけですね。でも、そうした感情を、どうして無意識に閉じ込めなくてはいけないのでしょう。簡単にいってしまえば、これも自分を守るためです。「それをいっちゃ、おしまいだよ」 と、フーテンの寅さんもいってますが、世の中には思ってもいわないほうが無難なことや、したくても、してはいけない事が、たくさんありますね。心は、そうしたことを嗅ぎわけて、直接表面に出てしまうと自分の立場が悪くなる、都合が悪い、と判断したものを、無意識という深い部分に沈めてしまうというわけです。


  そして、これは大事なことなのですがこの無意識の中に(感情を)閉じ込めることを抑圧(よくあつ)、閉じ込められたものを抑圧されたものといいますが、この抑圧は、自分ではまったく自覚することが出来ません。つまり、抑圧は自分ではまったく知りえない部分で行われている、と考えてください。たとえば、「父親を殺したいほど憎く思った。しかしこれはイケナイ気持ちなので、グッと心の中に抑圧した」この抑圧の使い方は(精神分析学では)間違いです。 この例えのように、意識的な部分(理性)で気持ちを抑えることは抑制といい区別されます。そして、もしこのとき、抑制ではなく抑圧という心の働きがあったとすれば、この人自身、抑圧したことはもちろんですが、「父親を殺したい」と殺意を感じたことすら知らないか、忘れてしまっているはずです。それくらい、この無意識という心の部分は、強烈な吸引力で瞬時に感情を吸い取って私たちの意識から消して去ってしまうわけです。しかし、感情は吸い取ってしまっても、それが異次元に葬られたわけではありません。ちゃんと無意識の中に保存されています。むしろ、怒りや憎しみの感情などは(抑圧されるよりも)、「こんちくしょう、いつか殴り倒してやる」と、いつまでも(表面上で)意識されているほうが、いずれ解消される意味では、健康的といえるのかも知れません。それくらい無意識の中は、さまざまな感情のパワーで一杯になっているわけです。
  そして、そのパワーたちは、私たちの行動に、さまざまな影響を与えて行きます。
  むかしイジメられた経験を心の中に押しとどめている(心を抑圧している)人が、暴力におびえたり、反対にイジメの首謀者になってしまったり、むかし親から精神的虐待を受けた人が、どうしても自分の子どもを愛せなかったり、親から受けたと同じような行為を子どもに向けてしまったり。しかし、本人にとっては昔、自分に加えられたイジメや虐待の苦しみは覚えてはいても、憎しみを(心の奥底に押し込んでいる、すなわち心の奥に抑圧した為に)覚えていませんから、「どうして、そうなってしまうのか」が分からず、漠然とした辛さに苦しむことになってしまいます。



 
 

(無題)

 投稿者:putarou  投稿日:2010年 8月 3日(火)17時39分55秒
返信・引用
  がんばろう。  

フリーターでも稼げるよ。

 投稿者:ヨシツネメール  投稿日:2008年12月20日(土)14時09分32秒
返信・引用
  裏のバイトのイメージってリスクはあるけど激高収入のバイトの事だと思ってない?
実際そんなの全然ないから。
やってみてそれがただのイメージだったって事を思いしらされたよ。
仕事簡単だし、時間も融通きくし、お金もいいし美味しい思いばっかりだよ。
ただ表に出ないから探しにくいってだけ♪
でも、ここの掲示板ならそういうバイト、ざくざくあるよ。

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正義論の潮流と社会保障-1

 投稿者:ぷーたろう  投稿日:2008年11月12日(水)13時52分45秒
返信・引用
         第3章 正義論の潮流と社会保障~分配的正義とリベラリズム

 前章までで、障害者の介助保障に関する言説と、それらが意
味すること、とりわけ「過剰な意味づけ」を批判してきた。そ
して、障害者が「ただ生きる」ということを実現するためには
、介助は「そのために必要である」から提供されるべき、とい
う全く単純な主張を行った。そしてそれは、障害者運動、とり
わけ青い芝の会が主張した「愛と正義を否定する」という主張
とそれほど大差はないことを確認した。




――――――――――――――――――――――――――――
―*************080918

 一方で、一般的に社会保障と呼ばれる一連の政策は、当該社
会における福祉、とりわけ政府が行う福祉政策によって規定さ
れる。北欧諸国を例とするように、手厚い福祉政策を実行する
国もあれば、「先進国」でありながら国家的な社会保険制度す
ら整っていないアメリカの例もある。これは、その国家がどう
いう政治哲学に基づいて構成されているのかを知る1つの手が
かりになる。

 ここでは、そのような福祉国家における制度類型30は扱わな
い。しかし、こうした制度は何らかの規範や理念に基づいてい
ることは確かである。そして、そのような福祉国家の規範類型
とでもいうべきものについて、ここでは考えることにする。す
なわちここでは、社会的分配に関する規範価値(の対立や競合
)を扱う。


 3.1 分配的正義の主張(1) ロールズ『正義論』と正義
の二原理


  3.1.1 社会をどう構想するか ロールズと正義感覚

 福祉国家の再分配政策の規範的論拠として、既に1971年に刊
行されたジョン・ロールズ(Rawls,John)の『正義論』("A
Theory of Justice"31
)は古典である。川本隆史は、ロールズの研究を支えていたも
のは「《自由》で《平等》な個人が《友愛》の絆で結ばれる社
会を希求する姿勢」であると評している32。ロールズは、当時
の欧米における倫理学での主流を占めていた「最大多数の最大
幸福」を掲げる功利主義を克服しようと、その生涯を費やした
。晩年こそ歴史主義、文化主義に「後退」したという指摘33も
あるが、「正義こそ社会の制度がまず第一に実現すべき徳性で
ある」34と説いた『正義論』の衝撃は、いまなお考えるべき主
題なのである。なぜなら、私たちの住む現在の世界において、
いまなお不平等は存在しているからである。すなわち、人間ら
しい生活を営むということに関して、分配という主題を考えて
みても、必要に足りない人が存在している、ということなので
ある。

 現代の社会契約論と呼ばれるロールズの『正義論』は、功利
主義という一種の帰結主義を乗り越えるために、義務論の立場
をとる。帰結主義は、人間の行為の正しさを、その行為が生み
出す帰結の善し悪しによって判断する。これに対して義務論は
、行為の正しさを、あらかじめ定まっている規則に基づいて判
断する。そしてロールズは、「公正な規則」によって構想され
る社会を描くのである。彼は、帰結主義に対して「公正として
の正義」(justice as fairness35)を置いたのである。そう
した義務論は明らかに、「人を目的として扱え」というカント
の目的論的義務論から構想を得ている36。

 なぜ彼は「公正な社会の実現」を説こうと思ったのか。それ
はやはり、1960年代におけるアメリカの黒人解放運動が大きく
影響したのではないかと思われる。というのは、『正義論』第
一章冒頭部の

 「正義の実現する社会においては、平等な市民権の自由は当
然のことであると思われる」

 ...in a just society the liberties of equal citizenship
are taken as settled...37

というような正義に関する「われわれの直感的な確信」38は、
マルティン・ルーサー・キングの"I have a dream"の中の次の
一節を思い起こさせるからである。

 「私には夢がある。いつの日かこの国が立ちあがり、その信
条が真に意味するところを実現することを。その信条と
 は「私たちは次のことを当然であると思う。すなわち、すべ
ての人間は平等に造られているということを」(引用者
 注・アメリカ独立宣言の一節)ということである」

 I have a dream that one day this nation will rise up and
live out the true meaning of its creed: "We hold these
truths to be self-evident: that all men are created
equal."39

 このようにロールズは、現実としてのアメリカ社会における
不平等を目の前にしながら、「公正としての正義」を希求し続
けたと言える。そして、現実の不平等を克服するには、功利主
義では不十分であり、それを凌駕するための「正義の理論」が
必要だと考えたのである40。

  3.1.2 ロールズの功利主義批判

 それでは、「公正としての正義」を実現するために、ロール
ズは功利主義の何を批判したのであろうか。それは、次の三点
に集約することができる。

 一点目は、個人のための「効用最大化」原理を、直接「社会
的意思決定の場」に拡張しているという点である。つまり、単
独の個人における合理的な選択が、そのまま社会的な決定にな
ってしまうということである。ここでは、個人の複数性や個人
間の差異というものがかき消されてしまう、と言うのである41


 二点目は、社会制度の正義を、効用算出の効率性に還元する
ことが帰結し、当の社会において「福祉がいかに分かち合われ
るべきか」に関する分配原理を脱落させてしまうことである。
すなわち、不平等な分配状態も、最大多数の最大幸福を実現し
ていれば正当化されてしまう、ということである42。

 三点目は、功利主義が欲望の充足を善と考え、それを最大化
することが正義に適う、とする点にある。ここにおいては、欲
望充足の源泉や質が考えられないのである43。「パンを食べた
い」という欲望を充足するために、対価を支払って購入して食
べることと、他人から強奪して食べることでは、欲望充足とい
う点において同列に扱われることになるのである。

 ロールズは功利主義がこのような問題点を持つことを指摘し
た。そして、それに取って代わる「正義論」を提唱したのであ
る。

  3.2.3 原初状態と正義の二原理

 ロールズ『正義論』は、財の分配に関する理論であり、それ
を実現するための制度と、その制度を支える原理の正当化を試
みようとする。そのために、原初状態(original position44
)という初期状況を仮定し、そこから人々が合意可能な正義の
二原理(two principles of justice45)を引き出そうとする
のである。

 原初状態は、現実のものではなく、正義の二原理を引き出す
ための概念的な装置であり、仮設的なものである46。原初状態
における当事者は、無知のヴェール(veil of ignorance47)
をかけられた状態で振る舞う、合理的な個人であると仮定され
る。この意味で、ロールズの正義論は、合理的選択の理論と社
会契約論とを組み合わせたものであると理解できるのである48


 無知のヴェールにより、原初状態の当事者は、彼らが暮らす
社会についての具体的な事柄、さらに、自分自身のアイデンテ
ィティに関して知らない。つまり、自分や社会に関する具体的
な様態について知らないところから、「どんな社会が自分にと
って住みやすい社会なのか」ということを構想する企てなので
ある49。

 そこから、ロールズによれば、原初状態における当事者たち
は、次の二つの正義の原理を選択するのだと主張する。

 第一原理
  各人は、基本的自由に対する平等な権利をもつべきである
。その基本的自由は、他の人びとの同様な自由と両立し
 得る限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければな
らない。

 第二原理
  社会的・経済的不平等は、次の二条件を満たすものでなけ
ればならない。
 (一)それらの不平等が最も不遇な立場の人の期待便益を最
大化すること。
 (二)公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に
開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと。50

 これらの原理の導出の過程において、ロールズは反照的均衡
(reflective equilibrium51)という方法を確立する。上述の
ようにロールズは、原初状態から正義の二原理が導き出せると
考えるのだが、原初状態のあり方は一義的ではない52。この反
照的均衡は、原初状態から導き出せる正義原理が、私たちの経
験的な善悪の判断と合致するかどうかの熟考を促すという。そ
して、正義原理と経験的判断がちょうど折り合った点を均衡点
とし、定式化するのである。その結果が、上記の正義の二原理
であるとロールズは述べる53。そのような正義原理が無理なく
導ける架空の概念装置が原初状態であると言えよう54。
 

セキュリティ意識調査

 投稿者:ぷーたろう  投稿日:2008年11月11日(火)09時54分38秒
返信・引用
  [ITmedia]
2008年11月04日 13時49分 更新
2008/11/04 13:49
「トイレなどで10分ほど席を外すとき」は4割近くが「何もしていない」と回答。ロックなしのスクリーンセーバーにはセキュリティ効果が薄いことも踏まえると、対策は急務といえそうだ
 サラリーマンやOL諸氏にとっては、憩いの時間といえる「昼休み」。休み時間の開始10分前ともなれば、限られた時間をどのように過ごすかで、アタマを悩ませる方も多いはず。でも、ほかにも考えるべきことがあるはずだ。そう、席を立つその際、あなたの業務用PCが無防備なままになってはいないだろうか……?
 情報漏えいやウイルス感染といった事件が絶えない現在、常識といえる企業のセキュリティ対策だが、ネットマーケティング企業アイシェアの調査により、仕事でPCを使う人の2割が、昼休み中のPCセキュリティについて対策していないことが分かった。調査対象は20代から40代を中心とする331人。男女比は男性62.5%に対し女性が37.5%で、調査期間は2008年10月21日から10月23日まで。
 回答者のうち、使用しているPCで「顧客データを扱うことがある」としたのは、「頻繁にある」と「たまにある」を合わせて約7割。昼休みに入る際、PCの電源はどうしているかについては「スクリーンセーバーにしてロックをかけている」が最も多く28.7%。以下「スクリーンセーバーにしている」が13.6%、「シャットダウンしている」が13.3%と続くが、「何もしていない」という無体策派も20%を超えていた……。
 一方、トイレなどで10分程度、席を外す際の電源状態については「スクリーンセーバーにしてロック」が31.7%と微増したものの「スクリーンセーバー」は11.8%、「シャットダウン」は2.4%まで減少。しかも「何もしていない」派が38.1%と、昼休み時に比べ20ポイント近く激増。一時的に席を空ける際のセキュリティ対策までは、従業員の意識がおよんでいないようだ。
 PCに対するセキュリティ監視ソフトの導入については「担当が管理している」が50.5%。「自分で入れている」も37.2%にのぼるが「分からない」「何も入っていない」とした人も、合わせて1割を超えている。
 会社でのPC利用に関するルールや運用規定について「厳しい規定がある」と回答した人は全体の38.4%程度。「規定はあるが自身の判断によることが多い」が19.3%で「規定はあるが割と自由」が18.7%。しかし「規定がない」という回答が23.6%もあり、多くの職場では規定の有無にかかわらず、PCの利用は各人の裁量に任せている模様だ。
 顧客情報や企業データの取り扱いに関する会社側からの指導についても69.2%が「指導あり」だった一方、「指導なし」という回答が30.8%もあった。
 企業におけるセキュリティインシデントは、外部からの攻撃もさることながら、悪意の有無を問わず内部によって引き起こされることが多い。個人の良識に頼るだけでなく、システム管理者が主導して、組織的な対策を徹底する必要がありそうだ。

データは消えない――メモリカードやUSBメモリに潜む落とし穴
11月10日9時50分配信 ITmediaエンタープライズ


 今回のテーマは、メモリカードやUSBメモリに潜む落とし穴です。まず、メモリカードといえば多くの方になじみがあるのがデジタルカメラで撮影した画像の保存ではないでしょうか。実は、撮影した画像を消去すれば「データが完全に消える」と認識をしている方が少なくないようです。

 わたしは、10年以上前に撮影した画面イメージをその場で見られるというカシオの「QV-10」を愛用していましたが、データの消去についての疑問から、セミナーなどで「画像を削除しても、データ本体は削除されないのでセキュリティ上危険ではないか」と警鐘を鳴らしてきました。

 簡単にファイルの仕組みを紹介すると、ファイルはデータ本体とそのデータを索引するためのインデックス(ファイル名や日付情報、格納場所などの情報)の2種類の情報からなります。通常、「ファイルを削除する」という操作はそのインデックスの情報を削除することで、データ本体はそのまま残った状態になります(インデックスも完全には消去されませんが、ここでは本体データがそのまま残るという事実を知ってください)。

 つまり、デジタルカメラのメモリカードでは、利用者が「画像を消した」と思いながらも実際にはデータ本体が消えていないことになります。当時、その考えが本当に正しいのかと思い、所有していた3台のデジタルカメラでメモリースティックとCFカード、SDカード、マイクロドライブの消去について実験をしました。

 現在の製品もそうですが、デジタルカメラには以下のような消去操作があります。

・現在見ている画像の消去(1枚消去)
・メモリ上にあるすべての画像を消去(全消去)
・メモリの初期化(フォーマット)

 その結果、どの消去操作を試してみても画像のデータ本体が消えていないのを確認できました。多くのデジタルカメラ利用者は、これらの操作をすれば「データが消えた」と誤って認識してしまっています。データが消えていないという事実を知らないままでいるのは、非常に危ないことだといえるでしょう。

 例えば、このような事件につながる可能性があります。その事件では、ある男性が美しい女性ばかりに「メモリカードを貸して欲しい」と声をかけていました。女性はメモリカードを消去して男性に渡しますが、男性は借用したメモリカードから画像データを復元して個人的に収集するという悪質な行為に及んでいたのです。

 女性からすれば、他人には知られたくないと消去したはずのデータが知らないところで使われているのですから、大変に恐ろしいことです。

 この男性がした行為は、メモリカードや男性が保存に使っていた記録装置を特別な操作で検証すれば、ほぼ確実に突き止められます。さらに、最近のデジタルカメラにはセキュリティ機能が強化されて、本体のデータを完全に削除する機能が搭載されるようになりました。こうした悪質な行為は、間もなく不可能になると思います。

 以前に比べるとメモリカードの種類は相当な数に増えています。10種類以上はおろか、最新のカードリーダーでは90種類のメディアに対応するものもあるようです。メモリカードに格納されたデータを正しく削除するために、メモリカードの種類に応じた方法でしなければならず、メモリカードの種類があまりも多いのは、情報セキュリティ上も好ましくないでしょう。

●USBメモリの落とし穴

 それではUSBメモリはどうでしょうか。一部のセキュリティを考慮した製品を除いて、今の情報漏えい問題で最も危険な記録メディアに挙げられているのがUSBメモリです。仮に盗まれた場合、保存された形跡のあるデータはHDDと同じように簡単に復元でき、利用者が「消去したはず」と思った会社の機密情報が第三者に知られることとなります。

 こうした事実に気付かずに、USBメモリで気軽にデータの受け渡しをしている企業が多数見受けられますが、極めて危険な行為です。利用者は「消去操作をしてから使っているから大丈夫だ」と思っていても、実際にはデータ本体が消えてはいないのです。「簡単に復元できる」という事実を知らないまま、他人にデータを見せていることは深刻です。事実を知れば、ぞっとする人が多いのではないでしょうか。

 さらに、会社の規則で「完全削除を行うこと」と定義しているところはどの程度あるのでしょうか。統計データはありませんが、私の経験上そのような会社は極めて少ないのが実情です。仮にルールを決めていても、それらが実行されているかをチェックしなければ、ルールが意味を持ちません。

 実際に「完全削除」を行うためには、物理記憶部分(ファイルの本体部分が格納されている場所)を意識的に上書き(ランダム値でもnull値でも大丈夫です)しなければなりせん。しかし、そこにはUSBメモリの大容量化という新たな問題が起きているのです。

 例えば、この前知人が持っていたUSBメモリの容量は、なんと64Gバイトもありました。数年前までは64Mバイト容量のUSBメモリが一般的だったのというのに、すでに約1000倍もの容量になっているのです。

 データ本体を完全消去するためには、別のデータを書き込みしなければなりませんが、64Gバイトという容量のすべてを書き込みする作業は実に大変なことです。知人が持っていた製品の仕様を見ると、「書き込み速度:3Mバイト/秒(最大)」と記載されていました。これは理論値ですが、64Gバイトの実質的な格納領域を仮に60Gバイトと見積もって、計算上すべての物理記憶部分へ書き込みをするには約5時間半もかかってしまいます。しかも、これは仕様書上の数字なので、実際にはそれよりも2倍以上もの時間がかかるでしょう。

 物理記憶部分に何かを書き込むだけで10時間以上もかかるとは、あまりも不便です。データ本体の完全削除を徹底するためには、一般的に3回以上書き込み操作をすることが望ましいとされていますが、64Gバイト容量なら30時間以上もかかってしまいます。

 書き込み速度の遅い安価で大容量のUSBメモリでデータを完全消去するには、悲惨な状況だといえるでしょう。企業のルールで「USBメモリ全体を3回上書きしてデータを完全に消去すること」と既定していても、現実に即していないのです。

 書き込み速度が高速なUSBメモリには、メーカーがうたう書き込み速度が約32Mバイト/秒のものや37Mバイト/秒のものがあります。安価な製品との価格差は4倍以上にもなります。仮にこの数値で3回の上書き作業をしたとしても、64Gバイト容量では3時間程度かかることが想定されます。いくら作業時間が短縮されるとはいえ、書き込み作業のために1日の業務時間が3時間も削られるのは好ましくありません。

 このように会社の規則でデータの消去方法を規定していても、それに見合う書き込み速度が得られなければ「絵に描いた餅」になってしまうのです。記録メディアの大容量化と高速化では、セキュリティも考慮してもう少しバランスの取れるようにしていただきたいと思います。読者の周辺ではデータの消去についてどのような方法を実施されていますか。ぜひご意見を伺いたいと思っています。


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オピニオン冊子が廃止

 投稿者:ぷーたろう  投稿日:2008年11月 2日(日)11時04分55秒
返信・引用
  論座に続き、月刊現代も廃止になるらしいです。
後は諸君と正論だけ。意見を述べる雑誌がなくなっていきます。
 

現論

 投稿者:管理者  投稿日:2008年11月 1日(土)17時15分45秒
返信・引用
  様々な論評をお願いします。  

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