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H.-G. ヴェルナー:ヴェールトの詩『ランカシアの歌』について 2

 投稿者:namiki  投稿日:2008年 6月19日(木)01時47分37秒
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     ヴェールトの文学・芸術論上の功績は、ほぼ同時期に成立し、同じくプロレタリアートの側に立ち革命的展望をも持しているフライリヒラートの詩『船底から』(Von unten auf. In: Werke in sechs Teilen / von J. Schwering  Berlin, [1909] T. 2, S. 95 ff)と比較すれば、より明確になる。なるほどフライリヒラートも感覚的に具体的な事象(プロイセン王を乗せて城へとライン川を航行する満艦飾の蒸気船)のイメージから出発して上述のモチーフを社会的・政治的な状況に関連づけることに成功している。しかしながらヴェールトは飲み屋、おやじ、飲み屋の客のイメージを社会的に具体化し、個々の要素を革命的・意図的に巧みに配列し、働く者が自己の労働による生産物に対し非人間的で不適切な関係にあるという印象をますます深化させ、提示されたこの不適切な関係に内包された帰結として革命的な結論を導き出しているのに対し、「船底から」においては、形象化の方法に傾向性を帯びさせていて、立てられたモチーフを潤色し拡張することによって、「プロレタリアートの機関士」の激越にして信仰告白的なモノローグによってモチーフに政治的・社会的意味と革命的傾向を与えているに過ぎない。その結果、評価と解釈の契機に過ぎない叙情主体が『ランカシアの飲屋のおやじ』より大きく前面の押出されるということになる。すなはち、ライン川上の豪華客船の外見と機関室の中の「煤と炎」との対照を大きくクローズアップさせることによって、さらには、形象化の意図見え見えに叙述している文体上の引き金によって、

   外では山笑い丘萌え、ラインは光輝きさざ波をたて −
      中の彼は一日中罐の火を見つめているだけだ!
   毛糸の下着に半裸になって、食うのも立ったままだ!
   ところが王様ときたら彼の上の甲板で豪勢な食事というわけだ −

だが、とりわけプロレタリアートの機関士のモノローグを誇張し拡大することによってこのことが為されているのである。彼はこの契機によって妥当性を持たされてもいなければ描写されている状況の中に存在感を持ち得ないでいる。これは叙情主体が彼を誘導するか取り込むようにして説明することによって彼の修辞的・信仰告白的性格に異を唱え撹乱していることから来ているのである;「・・・このように彼は尊き方に向かってぶつぶつ言い」それから「このように巨人キュクロプスは縮れた口髭の中で口ごもった。」 そのうえ、この語りかけは、それを言わされた人物が言うと予想されるものを大きく越えている。詩の中の人物と叙情主体の話ぶりと思考方法は噛み合っていない。叙情主体が人物にとって代わっているのである。この叙情主体によって、蒸気船が国家という船、国王がゼウス、プロレタリアートが巨人、船の罐が火山ひいては革命という寓意化がなされる。そして最終的にはプロレタリアートの解放の機能と聖クリストフォルスの神話的役割の同一化がなされるのである。すなはち、取上げられたモチーフに企図された社会批判的機能と革命的傾向を賦与するために、この叙情主体にはメタファーの連鎖が連なっており、その最後の環(=聖クリストフォルス)はしかしながら、出発点のメタファーと関連しておらず、文体上の置換え(最後の2節参照)を犠牲にしてかろうじて基本のモチーフと結びつけられているのである。革命的な性格が的確に浮び上ってくるこの詩の最終的落し所(火夫もまた城を見あげる。炎の音にしっかり気をくばりながら、/「さあ、いつまでも未来の廃墟を構っていられるかってんだ!」と彼は笑う)で傾向の文学・芸術論上の主観がまたもはっきりと登場する。「プロレタリアートの機関士」の先行するモノローグとも、また叙情主体の予告とも一致しえない不自然でアイロニカルな物言いによって、さらには、同じく上述の落し所を取って付けたように具体的で詩的な状況に関連付けることによってそうなってくるのである。何となれば、誰も未来の廃墟なんか「構わ」ないのだから、と。
  フライリヒラートの形象化方法は政治的にプロレタリアートの側に立って観念的・合理主義的に歴史的諸関係を芸術的に表現することにある。『船底から』では歴史の転換を規定する力としての主体が出現する。この主体はたしかにプロレタリアート階級の人格化として登場し、よって、集団的主体となってはいるが、詩的に実現された歴史コンセプトの観念的ユートピアが前面に出過ぎて、神話的メタファーと観念的に嵩上げされた性格付けの技巧のために、プロレタリアートの未来を規定する力が天から賦与された、いわば個人的な特性として出現し、その未来像が終末論的性格を帯びてしまっているのである。その結果、歴史発展としての革命的傾向は、客観的なプロセスとしては、とりわけ、社会的主要階級の諸関係による相互的規定プロセスとしては表現されていない。
  フライリヒラートの歴史観から来る政治的幻想性をエンゲルスは例えば『その方法』(Wie man's macht)に関して、「われらがフライリヒラートの頭の中におけるほど楽観的かつ奔放に革命が行われるところはないと告白せざるをえない」(Die wahren Sozialisten, MEW Bd. 2 S. 279)と斬って落とした。
    『船底から』や『その方法』といった詩の文学・芸術論上の、同時に、政治的な主観主義は、フライリヒラートのイデオロギーから説明され得るだけでなく、それを越えて、社会的状況、さらには、ブルジョア社会における政治文学の諸条件に対する彼の実践的関係と結びつけて考察されなければならない。
  マルクスは「個々人の生活と類概念としの生活、ブルジョア社会における生活と政治生活との間の二元性」(Zur Judenfrage, MEW Bd. 1 S. 360)に着目した。資本主義に実在する市民とブルジョア、政治的生活と私人としての生活、政治的理想と社会的実践といった対立は、詩人に、彼の関わる社会の諸矛盾から出発して政治的要求にまで高めさせ、それを世界観的・文学・芸術論的に抽象化させると言える。このようにして現実のものとなった政治文学の問題提起は比較的発展したブルジョア社会の諸条件下では、たしかに、ブルジョア社会を包括的に風刺ないし皮肉ってそれを否定するか(ハイネ)、思考過程と文体において極端に大風呂敷を拡げたうえで、ひるがえって個人的・具体的なものにすることによって(プラーテン)も、また、政治的に的確な状況に描写の範囲を限定することによっても対応できた。しかし、資本主義社会における政治文学の文学・芸術論上の問題を解決するには根底にある社会的諸状況を変革することが不可欠なのである。「現実の個々人が抽象的な国民に収斂し、生活経験、労働、諸関係を引きずった個々人が類的存在になって初めて、すなはち、この個々人が自分の<固有の力>(forces propres)を社会的力と認識し、組織し、さらにこの社会的力を政治的力に転化させ自己のものとして初めて、人間としての解放は実現するのである。」(同上、S. 360)
  個々の人間の生活経験を人類史の進歩に寄与する社会的実践と的確に一致させ、プロレタリア的階級闘争の個々の局面・瞬間において感覚的にとらえられるように咀嚼したうえ明示しなければならない。しかもこの際には、個々人の困窮を通して効果的に作動させることによって階級闘争に能動性を与える必要があると同時に、個々人の行動をプロレタリア運動の普遍的な目標に深く連関させなければならないが、この階級闘争はブルジョア社会における政治的事象を詩人が直接解説することによって表現されてはならない。ヴェールトの『ランカシアの歌』においては、個人的な事象と社会的なそれとのこの一致が、たとえ限られた範囲の事柄であるにせよ、政治的に戦闘的な、等身大の、臆することなく素直に態度表明する労働者階級の視点から創作することによって詩的に実現することに成功している。このことについて、1847年10月のエンゲルスの『仕事場』紙(Atelier)編集部宛書簡をみてみよう:「ぼくは2年ほどランカシアの心臓部いて、しかも労働者のなかによく入っていきました。大きな集会や小人数の委員会で彼らを観察しました。ぼくはこれらの指導者や弁士をよく知っており、あなたがたは世界のどの国よりもランカシアの木綿工場のこのような労働者ほど民主主義の諸原理を剛直なまでに恃みとし、自分たちが直面している資本主義的搾取の首枷を振り払わんと臍を固めているものはいないと確信されることでしょう。あの時ぼくの目の前で演壇から身を乗り出して目を輝かせ拳を振りあげ、ブルジョアをして不安と恐怖に身を慄かしめたこのような労働者が工場主に対して謝意を表することにどうして賛成することがありましょうか。」(MEW Bd. 4 S. 328f)
  ヴェールトは政治的にこれらの労働者の側に立っているだけではなく、かれらと個々の生活を共有していたのである;「どこでもそうですが、ここでも、プロレタリアのみが真の健康な人間なのです。」(1845年4月12日 兄Wilhelm宛書簡 Werke Bd. 5 S. 158) さらに彼はその歴史的機能と連帯し;「僕は宗教、財産、祖国を屁とも思わないプロレタリアであることを心底からうれしく思っています」(1844年12月24日 同上 S. 141)、プロレタリアとの連帯を実践すべき政治的責務と感じていた:「僕は今政治にどっぷり浸かっています、それも社会主義にです。日を追う毎に実践にのめり込んでいるような気がしているんですよ。」(1845年5月29日 同上 S. 162 )
  このような前提のもとにヴェールトは『ランカシアの歌』において政治的なものを専ら彼の原則的・社会的観点から形象化したのである。その際彼は、革命的プロレタリアートによって歴史的・具体的に把握され明示された事象の展望を提示することに限定したのである。
  民謡風の構造とモチーフを利用することによってヴェールトは自分の文学に特徴的な具体性とモデル性との一致を確保した。特に『かわいそうな仕立屋』はその芸術的な好例である。すなわち彼は、テーマとモチーフを形象化するにあたって、それらをひたすら間接的に階級闘争に関連させ、個と一般、単純な形式と複雑な内容との間の橋渡しに成功した。この詩の一般的テーマは民謡に多くみられるもので、ある仕立職人のかつがつの生活である。これがヴェールトにあっては伝統的な仕立職人の類型として描写されているのではなく、貧乏な職人とその労働との関係から出発しているのである。

   かわいそうな仕立屋
   背がまるまりぼけるほど縫い続けた
   30年も縫い続けた
   何故とわからぬままに

  特筆すべきことは仕立屋の反抗が先ず自分の労働の道具(針、鋏)に向かっていることだ。いまひとつの労働手段たる糸は最終的には彼の首を吊るすことになる。彼の運命は、貧しい諸条件の再生産で消耗してしまうひとつの社会的存在の無意味さを提示している。かわいそうな仕立屋は、圧倒的な社会的重圧に抵抗し、一生に渡って絶望的な辛酸を舐めてせいぜい働き続けることしかできない職人の典型として表現されている。
  この詩は、事件の原因を問う「真性社会主義」の同情文学(こう主張する向きもあるが)を遥かに越えている。このことに与って力があるのはとりわけリフレーンの処理の仕方である。「何故とわからぬままに」の繰り返しは提示された生活の重苦しさを意識させる。すなわち、職人の極端な、自殺という抗議はかれが状況を認識していないことから来ている。最後の節におけるリフレーンの変化は叙情主体の態度転換を示している。それは、職人のこれまでの生活からの、現在からの、さらには、「誰もわからない」と否定詞で表現された読者一般からの決別なのである。「誰もわからない」という最終確認は熟考を促す。読者は、ここに示された事件の原因を自分も本当に知らないのかという問いと対決するよう迫られるのである。
   このようによくある民謡を具体化することによってヴェールトの詩に描かれた事象は個別性と典型性を同程度に獲得することになる。すなわち、素朴に語るという提示形式が、一方において個々の経過を語ることによって感情を揺さぶりつつも、他方において型通りの用語、繰返し、並列語法、アナパイトス詩行によって控えめな発言(Understatement)を創り出し、職人の運命に接近させるかと思えば同時に距離を置かせるという効果をうみだしているのである。これを特徴付けているのが第5節の最初の部分である。このもう一度繰返される矛盾を孕んだ感情を揺さぶるリフレーンは中断され、平安とも受取れる叙述文が来る:

   彼はわからなかった −
   夕べの鐘がブーンと鳴った

相対立する感情を呼起こすこの叙述方法によって読者は不安になり合理的な解答を求めざるをえず、ふたつの叙述の外見上の無関係性がかえって、読者に両者の関連を意識するようより強く迫るのである。
 『ランカシアの歌』においてありふれた民謡調と社会的テーマとをこのように結合させることによって描写された事件の合理的分析は促進され、民謡調を突破口にしてロマンチックな決まり文句に疑問符を突き付け、描写された出来事に文学・芸術論上の基盤を賦与して、この出来事を例証的・典型的なものと特徴づけているのである。このように描出された出来事こそ、その歴史的役割によって自覚と楽観主義を正当化されている階級の代表としてのプロレタリア群像を芸術的に納得できるように形象化するのに大きく与っていることは言うまでもない。
  ヴェールトの詩『大砲を鋳る男』は同じく民謡調の出だしの社会的具体化から始まる:

   山は一面露に濡れ
   空では雲雀が歌ってた!
   まずしい母が −
   まずしい男の子を生んだ!

  重心は繰返される「まずしい」という形容詞にある。これが伝統的な民謡調を打ち破っているのだ。後続の各詩節では、己の労働に喜びを見出し、イギリスに名をなさしめ、年には勝てずさっさとお払い箱にされ、「役立たずや貧乏人の仲間入り」する「陽気な主人公」について語られる。
  この詩はひとりの精神的にも肉体的にも強靭な人間、すなわち、ひとりのプロレタリアートの略歴を表しており、革命的態度は彼の人生経験からの自明な帰結となっているが故に、彼は人生を「静かに」歩み、「いまいましい犯罪人どもめ」と恐ろしげなユーモアを発し、階級的展望を楽観することさえできるのである。
  ここにおいては詩の出だしの民謡風の自然情景が決定的機能を果たしている。すなわち、ひとりのプロレタリア革命家の形成過程が自然に根ざしたものとして現れているのである。それ故大砲を鋳る男の一生に直接反映された経過は、革命的階級の未来を保証し強化するものであって、自然なものとして規定され、条理に従った出来事としての特徴を獲得する。ヴェールトが「シレジアの織工一揆」を祝して書いた詩『彼らはベンチに坐っていた』においても民謡風の自然情景の要素は革命的労働者の態度が自然に対応したものとして表現するのに役立っている。昨日も明日も忘れてこの日を楽しむ労働者の祭りが自然の夏のすばらしさに呼応し、最後で連帯へのプロレタリア的呼びかけとその反響が自然の中で共鳴する。社会と自然との未来における統一の理想が現在を描写することによって貫徹されている。
 『大砲を鋳る男』や『彼らはベンチに坐っていた』のような文学は具体的かつ革命的である。それらはいかなる幻想をも生みださず、未来を規定するプロレタリアートの役割を強固なものとしている。従って彼の文学は、概して世界観的・政治的水平で捉えてはいるものの、プロレタリアートの政治的な力をとりわけ古い社会の否定から引き出しているハイネの革命的な文学の一歩先を行っていると言えよう。ハイネの『シレジアの織工』(Die schlesischen Weber)は、搾取と抑圧、苦しみと憎悪によって特徴づけられた破壊的集団を形成している:「かれらは歯を剥き出す。」 これとは異なりヴェールトの「ヨークやランカシアの/気の荒い男たち」は共産主義的共同体のために生活を楽しむことに扉を力強く開かんとする闘士として登場しているのである。

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