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5)2月10日 ブレヒトの生まれた日。
6)トラバント 旧東ドイツの2気筒の小型乗用車。性能・経済性ともに良くなかったが、乗用車を持つことが困難であった旧東ドイツでは申し込んでから10年以上待っても先を争って買われた。西のトラバントとはフォルクスワ−ゲンのこと。東のひとたちの垂涎の的。著者は身障者だったので入手できたものと思われる。
7)お客さん 原語 "Mitesser" は「吹き出物、にきび」の意であるが、これが寄生虫によってできると信じられていたことから、日常語で冗談めかして「寄食者、招かれざる客」の意でも使われる。
8)ここにいる("Ich bin da!") 長い間西側へ旅行することか不可能であった旧東ドイツの一般のひとたちも1989年の「転換」以来自由に西にも行くことができるようになった。著者も1991年の夏オ−ストリアのチロル地方で休暇を過ごした。この前後の数編はこの時に書かれた。
9)カイゼルの戦争 第一次世界大戦のこと。このときカ−ル・リ−プネヒトやロ−ザ・ルクセンブルクなど一部の社会主義者などか反政府・反戦争の闘争を行った。戦中、特に戦後、一部に、ドイツが敗れたのはこのようないわばトイツ軍を背後から剣で突く(Dolchstoss)ような「裏切り」があったからだという説が唱えられた。
10)え−りひ 旧東ドイツのあの「転換」で引退に追い込まれた当時の指導者 Erich Honecker のこと。2行下の「へるむ−と」は当時の西ドイツ首相 Hermut Kohl を指す。 「嘘ツイタ」は原語で "log", 「同じく」は "analog" で共に "katalog" や "dialog"(「転換」前の東西首脳会談を指す)などと韻を踏んでいる。
11)エルベの東 旧東ドイツのこと。エルベ川は東西ドイツの国境線の一部を構成していたので、このような意味でよく用いられる。
12)もし 原語の "Wenn denn" は "Wenden"(転換)と同音。従って最後の3行は、「転換の本: 詩行の本/転換の詩行: 転換の詩行/転換: 転換」ともなる。
13)ヤヌス ロ−マ神話で頭の前後両面に顔を持つ出入口の守護神。
14)落ちこぼれ的 原語の "ausfaellig" は「攻撃的な」という意味であるが、前の「落ちこぼれる("ausfallen")」に掛けているのでこう訳した。
15)壁・転換 原文 "Waenden" は、通常 "Wänden"(「壁(Wand)」の複数3格)と綴られるが、「壁」と共に "Wenden"(転換)の意味も持たせようとしてこう綴ったもの。同時に、この行は、物理的な「壁」はたしかになくなったが、別の新たな「壁」、西側による東側に対する精神的・心理的差別等があること、さらには、この前の「転換」は歴史のひとこまに過ぎず、真の意味での「壁」の崩壊・民主化はこれからだという認識を表しているものと思われる。
訳者あとがき
本稿は、最後の詩で明らかにされているように、その頁がお互いに本の表(裏)側から始まるふたりの詩人のふたつのテキストよりなる一冊の詩集、"Sieger lernen nicht. Ein Wendebuch" von Ilja Seifert/"alle sind alle. Ein Wendebuch" von Christian Schröder(Berlin 1992) のうち、紙幅の都合上、ザイフェルト氏の分の全文を訳出したものである。両テキストの共通の副題になっている「転換の本」(Wendebuch)の Wende は、縦に裏返す(wenden)と別のタイトルが現れるという本書の体裁にも掛けているわけであるが、1989年のベルリンの「壁」崩壊にいたる旧東ドイツの「転換」ないし「変革」を一義的には意味している。
ザイフェルト氏は、1951年旧東ベルリンに生まれ、17才の夏、事故で両脚切断の重度の障害者となり、以後車椅子での生活となる。75年ベルリンのフンボルト大学の独文科を卒業後80年まで科学アカデミ−の研究員、その間博士の学位取得、80年からは90年の東西ドイツの統一まで東ベルリン市の文化行政に携わる。この間、75年支配政党である社会主義統一党(SED)入党、以後各機関の党指導部や党書記を歴任、81年から87年まで「国家保安省」(MfS)の非公式職員(ただし、「密告」などは行っていないとのこと)。また、70年より各種民間ないし行政関係の身体障害者団体・機関の役員ないし代表を勤めている。90年の総選挙で民主的社会主義党(PDS)より旧東ドイツ人民議会議員に当選、同年10月の統一によりドイツ連邦議会衆議院議員に横滑り、現在、障害者問題、住宅及び郵政の各委員会を担当している。創作・執筆活動としては、72年ころより青年組織(FDJ)や労働組合(FDGB)の全国機関紙("Junge Welt"と"Neues Leben")などに随時詩や短い散文を掲載したり、週刊誌 "Wochenpost" と"Sonntag"にも89年までに100編前後の評論を執筆しているが、まとまったものとしては、これまで散発的に発表してきたものを集めた今回の "Wendebuch" が初めてである。
議員活動をしながらも書き続けている同氏の最近のもの二編をここに掲げておこう。
昨日
平和の夢を
見た。決して
賑やかなお祭りなんかではなくて、
各人に
仕事があり
住まいもあり
食べ物もたっぷり
ワインもあった。
今日
車椅子の夢を
見た。ぼくは
速く走れたし
手はしっかり
掴むことができた、
もはや
脚のようには
麻痺していなかった。
あの味は忘れられない、
上手くはなかったし、
ちょっぴりだった、
きみとの
初めての
キス、あの
夏、
ぼくの国は
ある通貨に
身を委ねた。
まだ覚えているよ、
どうなるか
見当もつかなかったが、
統一
への
熱望、あの
欲望、
途切れることなく
ますます
昂まっていった。
でも感じるんだ、
悲しいが、勇気も出てくる、
反発もある、
ぼくたちの
この
認識、あの
夏、
ぼくは
国を失い
きみを得た -
全てではないが。
尚、本稿では訳出しなかったが、一方の著者のシュレ−ダ−氏も旧東ベルリン生れ(47年)で、やはり本書が初めての出版である。同氏の作品については別の機会に紹介させていただく予定である。(本サイト所収済み)
この翻訳を試みることになったきっかけは、本年(94年)春ベルリン滞在中、新聞 "Neues Deutschland" の「催しもの案内」欄でたまたま本書の朗読会のあることを知り、 "Wendebuch" というタイトルからして、おそらく若いであろう詩人たちが89・90年の「転換」と統一をどのように捉え、どのように形象化しているか興味をそそられ覗いてみたことに始まる。この朗読会は民主的社会主義党の文化活動の一環として催されていたようで、参加者も同党のシンパらしき年配の人たちがほとんどで、両著者も気軽に朗読し、和気あいあいという雰囲気のなかにも、旧東ドイツ時代の詩の時にはやや深刻で沈んだものになり、「転換」期の時には詩の一行一行に活発な反応を示しながらも、時折、かなり深刻なものになったりした。「転換」ないし統一後のものは現コ−ル政権ないしそれをとりまく状況を風刺するものがほとんどだったので笑いに包まれる場面が多かった。小生にとって一番興味深かったのは、シュレ−ダ−氏のハイネの有名な詩「シュレ−ジエンの織工」をもじって、ハイネの詩の織工はポ−ランド人だったとしているもので、ハイネ理解に一石を投ずるものと言えよう。
朗読が終わってから質疑応答があり、その際ザイフェルト氏が、小生を唯一の外国人参加者として紹介し、−−たまたま小生が同氏の長男で高校生のイリヤ君に日本語を教えていて小生の参加を同氏はあらかじめ知っていた−−、50部限定出版の最後の一冊を贈ってくれたわけである。この際口頭で同書の翻訳の許可をもらい(その後同氏からは丁重な翻訳許可の手紙と最近の詩6編を送っていただいた)、夏にまたドイツに来るのでわからないところを質問させてもらいたい旨頼んでおいた。
確かにザイフェルト氏はあまり特別の技巧は使っていないので、素直に読め、全体的にはわかりやすいと言えるが、時事的・伝記的な点でわかりにくい個所が若干あったので、今夏ゲッティンゲン滞在の際、直接著者に確かめたいと思っていた。ザイフェルト氏には、8月半ばまで北欧で家族と共に四週間ほど休暇を過ごされた後、直ちに一○月に迫った連邦議会議員選挙の候補者としての活動に入られたので、直接話を聞けなかったが、幸い、シュレ−ダ−氏が、ゲッティンゲンに近いチュ−リンゲンにやはり休暇で来ておられ、八月の或る暑い日、小生の所に寄って下さり、小一時間ほど質問に答えて下さった。さらに別の機会には、ザイフェルト氏の留守宅にお邪魔し、本の装丁を担当されたコルネリア夫人などにもお話を伺ったりした。
訳出するにあたっては、著者の意を損ねぬよう直訳を心がけた。また、上記を含め誤り無きようつとめたが、非力故の誤解・誤訳が多々あるものと思われる。この点著者にお侘びするとともに、大方のご叱正を乞いたい。 1994年9月16日 訳者
掲載(Veröffentlicht):
愛媛大学教養部紀要, No. 27, pp. 191〜206, Dez. 1994年(In: Memoirs of the faculty of General Education, Ehime University)
改定増補(Korrigiert und ergänzt): 2008年4月8日 Namiki Takeshi
http://231.teacup.com/doitsugoken/bbs
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